僕の叔父さん
- 2016.11.02 Wednesday
- 00:02
子供の頃、毎週見ていたアニメの「サザエさん」。
ノリスケおじさんはちょっとドジで、とっつきやすくて、時々、本当に時々かっこいいイメージだった。
子供の頃、高級料亭で板前をしていた叔父さんは、僕にとっての身近なノリスケおじさんだった。
5人兄弟の末っ子だった叔父さんは、おばちゃんからも、伯父さんからもダメな弟扱いをされていて、じいちゃんばあちゃんからはいつも心配されていた。
でも、甥っ子にしてみるとたまに遊んでくれるし、お年玉もくれるし、いたずらは大目に見てくれるし、うるさいこと言わないし、泊まりにくるとわかるとワクワクして待っていた。
よく覚えているのは中学生のとき、叔父さんは板長のお手伝いとしてフジテレビのドラマかバラエティかで調理シーンに協力し、いろいろとノベルティグッズをもらってきてくれた。
まだ河田町にあったフジテレビの目玉マーク入りの腕時計を「へへ」と思いながら学校にしていって友だちに自慢したら、何人も見に来て、いい気分だった。
ネットもケータイもない時代、テレビはとんでもなく華々しいものだったんだと思う。
専門学校を卒業する段階になって、料亭の板長さんとお会いしたことがある。
話はこんがらがっていて、誰がどう心配してくれたのかよくわからないけど、就職口の紹介だった。
板前じゃなく、マスコミへの。
というのも、その店の常連さんに大手出版社から独立し、とある出版社を設立したばかりの有名編集者がいたのだ。
若い社員を募集しているとのことで、もし、板長のお眼鏡に叶えば、編集者さんに橋渡ししてくださるという話だった。
たぶん、どっかで叔父さんも口添えはしていてくれたのだと思う。
ただ、この話はうやむやに終わった。
当時、僕は駆け出しライターで、向こうが探していたのは文芸の見習い編集者で、クソ生意気にも僕は気乗りしなかった。
板長さんもなんだか偉そうだったしね。
20代半ば過ぎで仕事が途切れがちになったとき、その出版社はどんどんヒットを飛ばしていて、このときの選択を後悔したこともあるけれど。
そんなふうに後悔していた頃の2、3年後、叔父さんは日本橋のデパートに出店していた支店に異動になった。
なぜか親子丼の達人として、テレ東の番組に出たりしていた。
僕は僕で、当時の彼女を連れて叔父さんのところへ食べに行き、なんだかいろいろサービスしてもらっていい気になっていた。
それからしばらくして、仔細はわからないけど、叔父さんは店を辞めた。
金主が付いて独立するって聞いていたけど、不景気の波にのまれて話が流れ、赤坂見附の天ぷら屋さんで働き始めた。
かつての赤坂プリンスの近くで、接待やら商談という財布の痛まない金が落ちそうなお店だった。
一度、おばちゃんと2人、天ぷらをごちそうになったと思う。
店の雰囲気が大人過ぎて、味はあんまり覚えてない。
でも、奥の調理場から出てきた叔父さんは、いつもの人の良さそうな笑顔だった。
それから10年くらい、叔父さんとは年に1回顔を合わせるかどうかになっていった。
おばちゃん経由で聞くかぎり、叔父さんのキャリアは完全に下降線だった。
景気が回復したら店を出すはずが、失われた10年は20年になって、実現しなかった。
なんだかよくわからないけど、叔父さんはデパートの肉屋さんで働くようになっていた。
時々会うと、すごいうまい牛肉をくれたりしたけど、顔をいつもちょっと疲れていた。
僕らの結婚式。
よくわかんないけど、おばちゃんたちが兄弟げんかしていたため、さみしい人数になってしまった僕の方の親族席で、叔父さんは明るく振る舞って、妻の親族と交流してくれていた。
式が終わった後、「いい挨拶だったよ」と涙目で言ってくれて、すごいうれしかったのを覚えている。
そんな叔父さんが去年、心筋梗塞で倒れた。
一番近くに住んでいた親類が僕で、おばちゃんから連絡を受け、病院に行った。
緊急手術を終え、集中治療室に横たわっていた叔父さんは痛々しかった。
でも、幸いに症状は軽くて、2ヶ月後には仕事に復帰していた。
ある日、ふらっと渋谷のお店を訪ねたら、僕より全然若い男とコンビを組んで、肉を捌いていた。
「急に来たから、びっくりしたよ」と言いながら、ローストビーフを持たせてくれた。
今年、今度は脳梗塞で倒れた。
幸いおばちゃんが叔父さんのところに泊まっていて、すぐに救急車を呼べた。
後遺症もごく軽く、でも、血管の状態がひどく悪いから2ヶ月は入院しなさいと言われ、叔父さんはがっかりしていた。
すると、何度かの検査の末、胃がんが見つかった。
医師は切るべきと言い、叔父さんも渋々といった感じで納得して、手術を受けた。
3分の2の胃とともにガンは摘出されたけど、血管の状態は悪いまま。
仕事への復帰は難しい。
でも、田舎には帰らない。
いい方法を模索して、入院中から週に1回ペースで叔父さんと顔を合わせるようになった。
途中、僕が足を折ったから見舞いやケースワーカーさんとの打ち合わせで病院に行くと、叔父さんが車椅子を押してくれた。
「どっちが病人かわからないな」と笑われた。
3ヶ月ちょっと入院の末、叔父さんは退院した。
約2ヶ月、もろもろの書類を整えて、相談や面談を終えて、ヘルパーさんが通ってくれるようになり、新しい生活のペースみたいなものが整っていくのかな……というところで、叔父さんは亡くなってしまった。
玄関先で倒れていたと言う。
もっと早く駆けつけていれば、と思う。
締め切りが山積みのこのタイミングでか、とも思ってしまう。
病院の霊安室に行くと、すぐに目を覚ましそうな顔で横になっていた。
ぼんやりして涙も出ない。
叔父さんの部屋に駆けつけてくれたヘルパーさんと管理会社の人とともに、警察の事情聴取を受ける。
病院付きの葬儀社がやってきて、今後のことは? と聞いてくる。
わけがわからないし、叔父さんは笑わない。
深夜、現場検証のため、叔父さんの部屋に行く。
臭いがすごい。誰もいない。
つい何日か前、区役所からここまでクルマで送ったのに。
刑事さんが部屋の中を調べる間、叔父さんが退院前に「どこで間違って、こうなったんだろうな。俺、なんか悪いことしたかな。時々わけがわからなくなるんだよ」と呟いていたのを思い出す。
僕は今、わけがわからないよと言っても叔父さんはもう笑わない。
佐口様の今回のお話に、複雑な家族関係ながら赤裸々な忌憚のないお話を、神妙な面持ちで拝読した次第です。
これからも、色々と大変でしょうけど、佐口様もご自愛くださいませ。また、ご母堂様にも、お力添えいただけましたら幸いです。
ご丁寧にありがとうございます。
なんだかいろいろ大変でした。